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こんな記事見つけました

昨日ネット見ているとこんな記事がありました。
「サッカー日本代表川島選手侮辱行為に涙…」
http://www.soccer-king.jp/news/europe/article/201108201400_eiji_kawashima.html
(海外サッカーでは度々ファンのヤジのことが問題になるけど、こんな風に試合を中断して抗議することはあまりないこと。)
許せないことにきちんと怒れること。これって難しいけど大事だと思うんです。m
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震災後の再構築

先の大震災以降、余震もまだ続く中、価値観や生活が一変し、皆様それぞれが大変な毎日を過ごされていることと存じます。
先の見えぬ複合災害の中、それぞれが、今、できることをして、人のつながりの中で、困難な状況を少しずつでも変えていければと思います。
(「できること」は、必ずしも支援活動を指すものではありません。自分の心身の安全を保つことや、思いを誰かに伝えることさえも難しい状況の中で、自分や周りの人を守って生きていくこと自体が、「できること」だと思います。)

人権を守るためのNPOの活動も、人と出会い、互いに知り合い、思いを共有し、仲間を作っていくことにあります。
復興へ向けて、また人と人とのつながりを構築してきたい。
一方で、災害による非日常状態の中で、人権侵害のリスクへ慎重に気を払っていかなくてはなりません。

当記事は東京の会員による書き込みですので、東京の様子の報告を。
都内は引き続き省エネモードですが、日常生活は震災前に戻りつつあります。
3月中は電車が止まり、職場まで徒歩で通勤していたこともありました。が、次第に通常運行に戻っています。
先日までお目にかかれなかった納豆や牛乳も、店頭に並ぶようになってきました。
この間、実家のある仙台へ行ってきましたが、東京のほうが、直接的な被害よりも報道による影響が大きく、閉塞感があるような気がします(←あくまで個人的な感想です)。

長野の様子も気になっております。
報道はどうしても東北へ偏りがちですが、長野県でも栄村を中心に被害が出ています。
栄村はtwitterで情報発信を始めたようです。⇒栄村twitter
有志による情報サイトもあります。⇒栄村復興への歩み(NPO法人栄村ネットワーク)

また、長野県は、一大避難民受け入れ地域としても名が挙がっています。
北信で教師をしている友人から、福島からの転入生を複数名受け入れたと聞きました。
異なる状況に置かれた人々同士が新たなコミュニティを作っていく上では、様々な壁を乗り越えなければならないでしょう。
東京都では、三宅村から避難民を集団で受け入れた経験があります。同じ都内と言え、島と都心とでは当然文化も風土も異なりますし、行政機能といったシステム上の問題から、人と人との交流まで、安定して暮らせるまでに、困難な時期があったとのこと。その際、「つなぎ役」がとても重要な役割を担うことになりました。
長野でも、コミュニティのあり方や、新たなコミュニティの構築について、本気で考えていくことが求められるはずです。

「モンスター」と呼ぶこと

 私は病院勤務ですが、先日、自らの要求を繰り返し主張し、どうしても無理を通したい、という患者家族へ対応したことがありました。
 プライバシーに関わることですし、本旨とあまり関係がないので、詳細は書きませんが。

 その方が主張される要求というのは、病院として、医療の公平性(=経済力や社会的地位に関係なく、必要な人に必要な治療を提供すること)から受け入れることができない内容でした。
 加えて、要求を受けてしまうと、逆にその患者・家族の人生を圧迫する事態が懸念されたため、お断りするしかなかったのです。
 しかしながら、「どうしてもこうしたい」と主張してくる背景には、その人なりの理由があるはずです。

こちら(病院職員)としては、
・要求はどうしても受け入れられないこと、受けてしまうと起こる問題について理解してもらう
・要求の裏にある、病気や今後の生活への不安や恐れについて、気付いてもらい、話してもらう
・その不安や恐れを解決するために、他の方法を提案したり、一緒に考えたりする
・他の方法がとれない理由(心理的、経済的、物理的、etc)も確認する
・これらを踏まえた上で、実現可能な解決策を考え、具体的にどうやって動けばいいか、誰が何をできるのかを検討する
という対応を取らせてもらおうとしました。

 1週間以上かかり、長い日は一日5時間ほど、表現を変え、対応する職員を変えながら、丁寧に答えていたつもりでしたが、最後のほうには、こちらの表現を曲解され、かなり乱暴な口調で、理不尽と思われるような非難や訴えをしてこられるようになってしまいました。

 このような事態が起こった時に、近年、「モンスターペアレント」、「モンスターペイシェント」という呼称が用いられるようになってきたようです。教育や医療の現場で使われ始めたものだと記憶しています。

 私はこの言葉自体も、言葉を用いることも、感覚的に嫌いです。

 言葉自体に関して言えば、片仮名で表現を和らげているつもりでも、意味としては、人間同士で「とれるはず」のコミュニケーションがとれない、怪物である、ということです。
 そしてその言葉を用いることは、相手を「怪物」にカテゴライズし、我々が安住「できるはず」のシステムの調和を乱す存在として、全面的に罪をかぶせようとする行為です。
 コミュニケーションとは本来、相手と自分がいて、双方のやりとりで構築されていくものです。他者と自己との間で、普通にしていれば、コミュニケーションがとれるはずという前提も、自らが属する社会システムが常に調和のとれたもので、そこに安住できるはずだという前提も誤りです。
 排除の論理が働きそうなとき、私は、感覚的に拒否してしまいます。

 ここで重要なのは、悪意の有無です。
 悪意、つまり、相手を傷つけたり陥れたり危機にさらしたりすること自体を目的に(或いは容認)した行動は、当然に非難されるべきです。悪意によって安定が乱される場合、悪意から逃れる、或いは悪意を遠のける必要があり、そのためのシステムも必要です。(これはこれで大変難しい問題なので、ここではこれ以上触れられません。)
 悪意の見極め自体も難しいとは思いますが、私が今回対応したケースは、悪意というよりも、どうしていいかわからず混乱を極めてしまったように感じました。

 実際、私もこのケースに対応したため、予定していた仕事ができず、他の方との相談業務も行えず、周り(患者、同僚、自分の家庭)に少なからぬ迷惑をかけました。このような状況に陥ってしまったことに戸惑いましたし、自分に特段の落ち度はなかったと思ってはいます。
 しかし、相手を「モンスター」と呼ぶことをしたくもありません。
 人間関係を構築する過程の理解の最中で、失敗してしまったのです。

 患者家族にとっては、病気の苦しさと、そこから生じる日常生活の苦しさを、何とかしたい、というのが今回の行動の根本的な動機です。他に得られるはずの支援を拒否してしまうのは、こちらとしてもやりきれない思いでしたが、支援を得られたとしても、今の日本では、患者と家族が望むような生活は得にくいのが現実です。
 私はあくまで組織に属した立場から対応しました。相手から私個人への理不尽な非難が始まった時、組織は守ってくれました。
 この立場の違いから両者の関係性を構築するとはどういうことか、常に考えなくてはならないと思うのです。